ANA国内線【PR】

at random

heiwaheiwa.exblog.jp

形而上学とは我々が本能的に信じている事柄のために、つまらぬ理由を見つけることである/ブラッドリー

口が滑ると、よく言うが、ブログや掲示板で、うっかり言い過ぎてしまうのは、キータッチが滑るとでもいうのだろうか。

会話というリアルタイムなコミュニケーションと違って、ネットでの書き込み、投稿というのは、タイプしながら推敲できるし、最後には送信ボタンを押す前にもう一度、自分の言っていることが、穏当かどうか考える時間があるわけだから、うっかり言い過ぎるってことはなさそうなのだが、ところがどっこい(古っ!)、キータッチも案外滑るのである。

「あっ、筋が通ってないな」とすぐに気がつけば、削除も可能だが、多くの人の目に触れたであろう時間が過ぎた後では、削除するのもなんだか、逆に潔くない感じがして、結局、駄文を残す羽目になる。

会話なら、忘れてもらえることもあるが、ネットの書き込みの場合は、文章の形で残ってしまうので、ある種、口が滑る、よりも、キータッチが滑ることのほうが、みっともなさ度は高いかもしれない。

と、まぁ、なにが言いたいのか、どこに着地したいのかよく分からない書き出しだが、書いてる僕がよく分からないのだからそうなるのはある種自然な流れなわけで。

さて、下のコメントで、ぽちさんがある種のアンチな人たちをつかまえて「痛い人たち」と表現しておられるのだが、この表現が、ちょっとひっかかった。「痛い人たち」ってのはアンチな人たちが、JWをさして、よく使う言葉だ。彼らが、言ってることが本当だとして、確かにそのJWは「痛い人」と言われても仕方ないなと思うこともあるし、そうは思わないことも当然ある。で、僕は、それが妥当でも妥当でなくても、決まってイヤーな気持ちになるのだ。

「痛い」ってのは僕の感覚では、批判でも批評でもなくて、ただの侮辱だ。批判や批評と違って、侮辱には愛情が入り込む余地がない。建設的な展開を見る可能性もないし、そうしようという意思も感じようがない。

組織や仲間に対する批判や批評にうなずくことはあっても、組織や仲間に対する侮辱や嘲笑に共感を覚えることはまずない。書き手のことを下品で嫌な奴だなと思うだけだ。

とはいえ、アンチの人たちはJWに恨みもあるだろうし、それをこっちが受け入れるかどうかは別として、侮辱したくなる気持ちもまぁわからんでもない。そりゃ、いやな目にあってやめたんだから、悪口も言いたいだろうて、と思う。もちろんこっちにも、それを心の中で、「何をいってやがる」と思う権利があるわけだが。

でも、こっちは「心の中で思う」までで止めないといけないんじゃないかなと思うのだ。やめた人は、JWに恨みがあるかもしれないが、ぼくらには別に彼らに恨みをもつ理由などないはずだ。大抵の場合、彼らは「JWの主観」(←ここ大事)からすると、「弱者」としてこの組織を去る。弱者というのはエグい言葉すぎて語弊がありそうだが、まぁ言葉を選ばずに言えば、そういうことになるかと思う。去った彼らが弱者なら、残った僕らは強者ということになる。弱者が強者にうらみを抱いて、悪口をいうのは、アリだと思うが、強者が弱者に侮辱の言葉をかけるのは、美しくない。思ったとしても、言うのはやめといたほうがいい。・・・黒沢先生もそう言っている(笑)

と言うわけで、せっかくコメントしてくださったぽちさんにいきなり反論で悪いのだが、アンチに対する批判や批評はアリでも、侮辱はナシだと思うのだ。品位を落とすだけで、なにもいいことがない。心の中で「アホだな」と思うことまでは止められないかもしれないが、書いたり言ったりするのはやめといたほうがいい。

・・・と、ここまで書いておいて、冒頭に言ったことが利いてくるのだが、直近の自分の投稿記事を見直してみると、9/11の記事なんかでは、アンチの人をつかまえて、「頭が悪い」と書いている。これなんか分かりやすい侮辱の言葉だ。キータッチってのも滑るものなのである(苦笑)
# by heiwa | 2008-01-27 23:35 | Comments(3)
これは勝手な基準と言うか、根拠の無い、僕の気持ちだけの話なんだけど、まともな大人として、許される意地悪さの限界と言うのは、「手もひいてやらないかわりに、足も引っ張らない」だと思う。無論クリスチャンならば、親切なサマリア人のように、親切にしてやる理由が無い人に対して親切であらねばならないのだが、まぁそれを親切さの目指すべき上限とするなら、意地悪さの許されるぎりぎりの下限は、「ほったらかし」だと思うのだ。

能動的にやる意地悪は、大人のやることじゃないよなぁ。「気に食わない奴をほっとく、親切にしてやらない」ってのは、ぎりぎり、あり(笑)、としても、気に食わない奴に恥をかかせたり、弱ってるところにたたみかけたりするのは、大人のやることじゃないよなぁ。

でも大の大人が、それも30代や40代のまだ青さ、若さの残る大人でなく、50代60代の、自然に長者の風格を身に着けているべき人間が、そういう積極的意地悪をやるのをみると、ものすごくげんなりする。

なんでいい年をしてそんな恥知らずなことができるのかなぁ。

見ていると、どうもその手の意地悪ってのは、子供がやるいじめのように愉快犯的に行われるのでははなく、確信犯的に行われることが多いようだ。要するにポリシーとか、自分なりの正義感の発露が、周りには機会と力を使ったただの意地悪にしか見えないという図式。

そう考えると、下手なポリシーとか、コントロールされない正義感ってのは、本当にないほうがましなもんだよな。

嫌いな奴、気に食わない奴、罰があたって当然の奴に対峙するときは、ものすごく臆病になるくらいがちょうどいい。自分の正義の皮をむいていった芯が意地悪さとか邪悪さだったら、本当にみっともないから。その結果が、香もたかず屁もひらずになるなら、それもまたいたしかたない。
# by heiwa | 2007-12-04 01:04 | Comments(2)
Aが気に食わないから、Aと対立しているBに肩入れする。それぞれの意見の、是非、正誤はこの際、判断材料に入らない。

すごく危うい姿勢だと思うのだが、僕にはそういう性向がある。論理的な根拠はないのだが、実は、自分の場合はこれでも道を誤らないのではないかと、思い込んでいるところがある。あまりなおそうとも思っていない。

何が言いたいかって言うと、下品さや、嫌らしさがにじみ出ているサイトってのは、僕の魂に火を入れるなぁってことなんだけど。ある意味、魂の碇だな。
# by heiwa | 2007-11-13 22:49 | Comments(8)
頭の中でも、口に出しても、亀田家の子供たちにくんをつけるという発想は今までなかったのだが、さっきテレビで、親父さんとジムの会長の同席のもと、謝罪会見に登場したしょげかえっている亀田家の次男をみて、フツーに「亀田くん、かわいそうに」と思った。朝青龍もそうだが、イケイケどんどんの人間ってのは順境時にはよくても、逆境に弱いなぁ。

亀田家に対しては、テレビで最初に見たときから今のこの状況に至るまで、共感や好感を覚えたことはないし、いまぼろぼろになってるのも当たり前の自業自得だと思う。でも、彼らが自分たちでまいたものを今、刈り取っているという因果の当然さは別として、それを刈り取らせる処刑人の役を嬉々として買って出ている人たち、つまり試合後テレビでいろいろ批判めいたことを言う有象無象のコメンテーターや、タレントたちを見てると、この人らはこの人らで、亀田家の人たちに負けず劣らずの趣味の悪さだなぁと思わされる。刑罰は必要でも実際に手を下す処刑人の役は普通、忌避されるものだと思うのだが。

二つ前の記事でも書いたが、弱り目に祟り目の人間に、さらに追い討ちをかけられる人間、尻馬に乗ってなんの独創性もない知ったようなことを言う人間は、信用できない。

正当性、必要性の有無、軽重と関係なく、みんなから石を投げられている人間に、躊躇せずに自らもまた石を投げる人間を見ると、「あー、無教養なやつだなぁ」と思う。やっつけられるべき人間がいるとして、すでにやっつけられているのなら、もう石を投げる必要はないと思うのだが。すでに死んでいるんだから。死んでいる人間になお石を投げる人間はサディスティックな変質者か、物の道理がわからない軽薄な未熟者だと思っている。
# by heiwa | 2007-10-17 23:24 | Comments(2)
http://www.yabelab.net/blog/2007/06/20-101839.php

№40、№54のコメントが、興味深いです。別にJWをかばっておられるわけではないと思いますが、こういう考え方をしてもらえるのは、ありがたいですね。
# by heiwa | 2007-09-28 22:52 | Comments(2)
< 前のページ 次のページ >

by heiwa
XML | ATOM

skin by excite
トップ